うたと映画の分析批評

歌謡曲・詩・映像作品など

なごり雪/伊勢正三

※ 詞 http://www.uta-net.com/song/3382/

 

問一 場所はどこか(東京

問二 「君」はどこに行くのか(故郷

問二の二 根拠は(東京で見る雪はこれが最後ね

問三 「君」と「ぼく」の年齢は何歳か(22歳

問三の二 根拠は(時が行けば幼い君も大人になる)(ふざけすぎた季節

 

★ 2.7.14追記

 

なごり雪伊勢正三を解釈する

令和2年7月14日版


●はじめに
この詩は3番構成としておく。
1番「汽車を待つ~きれいになった」汽車が来るまでの待ち時間(長い)
2番「動き始めた~きれいになった」君が汽車に乗り込んで出発するまでの時間(短い)
3番「君が去った~きれいになった」汽車が見えなくなった後(長い)

●1番の解釈
・「汽車」とあるから近郊までしか行かない電車ではない。電化していない地方まで走る蒸気機関車か、ディーゼル
・「君の横で」すぐそばにぼくはいる。手を伸ばせば触れられる距離。
・「さみしそうに」わざわざつぶやくのだからぼくに何かしてほしい。
さみしくさせないでほしい。でも僕は行動に移せない。もうこれが最後なのだ。

・「季節外れの雪が降ってる」といった後で「なごり雪も降る時を知り」、さらに「ふざけすぎた季節の後で」
この3行は逆順か。
時系列順にすると、
「ふざけすぎた季節の後で、なごり雪も降る時を知り、季節外れの雪が降ってる」
となる。

・「なごり雪「も」降る時を知り」だからほかに「も」降る時を知る人がいる。
「降る」は掛詞で「ぼく「も」経る時を知り」
なごり雪がちょうど今降るべき時に降ってきた、同じように、ぼくもこの別れの時になってやっと今まで君と過ごしてきた数々の思い出がよみがえってきて」
君「も」経る時を知ったのかもしれない。

・「ふざけ「すぎた」季節の後で」
今までは二人で楽しくふざけあって、でも今思うと、それはやりすぎていて、度を越していたなあというくらいの時の過ごし方だった。本当はもっと真剣にやらなくてはいけないことがあったのに、それをふざけてなおざりにしていた。

・本当は僕が言いたかったこと。
君が言ってほしかったこと。
「今春が来て君はきれいになった。去年よりずっときれいになった」
今になって君と別れなければいけない今になって、君はずっと、きれいになったなあと思う。
でもその言葉を伝えていない。

●2番の解釈
・「動き始めた汽車の窓に顔を付けて君は何か言おうとしている」
もう彼女は乗り込んでドアは閉まっている。
汽車が来たとき、乗り込んだ時にどんなやり取りがあったかは語られない。
汽車の窓は開かない。
君は座席にいるかもしれないし、まだデッキにいるかもしれない。
君は何か言おうとしているが言えないでいる。
おそらく彼女も、ちゃんとさようならを言えなかったのだろう。
「言おうとしている」ぼくが君を視覚でとらえた表現はここだけしかない。

・「君の唇がさようならと動くことが怖くて下を向いてた」
見た順は、君の顔(目)、君の唇、下(地面)。
たぶん一瞬は目を合わせたのかもしれないが、それは短い時間で、すぐに目をそらしている。
窓は開かないから声は聞こえないので、もしかしたら汽車の音が大きくて聞こえたとしても聞こえづらいのかもしれないが、
読唇で言葉をやり取りするしかない。
としても、最後に見た彼女の体が唇だというのはなまめかしい。

「さようなら」と言われることが怖い。
本当に怖いのは、彼女と離れて暮らすこれからの孤独な生活だろうに、それが決定事項となってしまうのが「さようなら」の言葉だと思っている。よほど、彼女との別離が受け入れられない。
「さようなら」という言葉を、汽車に乗り込むまでに交わせなかったのがわかる。
僕が目をそらした後に彼女は「さようなら」と言えたのかもしれないが、それはぼくには伝わっていない。
最後までちゃんとした別れをできずに離れてしまった。
なんという後味の悪さ。
たぶんここがピナクル。

自分の場合。
当地での生活を終えて故郷に戻る駅。
たくさん来てくれた見送りの友達先輩との別れ。
目を交わした。
言葉はそれぞれ交わせないまでも、万感の思いでそれぞれの目を見て、言葉を伝えた。
デッキに乗り込んで、ドアが閉まり、そうすると涙があふれてきて、最後まで姿を見られなかったように思う。
周りの人を気にして、自分でも意外で、恥ずかしかったのと驚いたのを覚えている。
そういう、知らず目頭が熱くなる経験は、そのあとも二度経験している。

・「時が行けば幼い君も大人になると気づかないまま」
「時が行けば」時間がたつと。
「幼い君」東京に出てきて、また地方に帰っていくおそらく大学卒業生が「幼い」というのは矛盾する。
君を含めぼくも「幼い」と感じさせる出来事が大学生活にあったはず。※後述

時間がたてば、今のように幼い行動しかできない君も、ぼくも、そのうち大人になってちゃんとふるまえるようになるはずだが、でも今はそんなことは当然気づかないままで。

話者は大人になってから当時を回想して君とぼくの行動を幼いと感じながら描写している。

・「今春が来て君はきれいになった 去年よりずっときれいになった」
現実は、きれいになった彼女に向き合えない。
去年より、と去年までの思い出の彼女を回想している。回想の中にいて現実と対決していない。

●3番
・「君が去ったホームに残り 落ちてはとける雪を見ていた」
下を向いたままのぼく。
目を合わせないまでも、彼女の去り行く小さくなっていく姿は見ていたはずだ。
汽車が見えなくなり、茫然として。
さっき彼女がそばにいたのに、目も合わさず、ろくな会話もできず、下を向いていた時に見ていたあの雪と同じ雪を今見ている。
その雪ときたら、落ちてはどんどんとけていく。
残りはしない。
消えていく。

●幼さの解釈
大学卒業になってまで、自分たちは幼かったんだと、そしてちゃんとさようならも交わせずに別れてしまう二人には何があったのか。
曲は1974年の発表だが、当時の時代状況にあるような気がする。
あの頃の若者には大きな挫折があったと聞く。
「ふざけすぎた季節のあとで」
自分たちがしてきたことは、度を越してふざけていたんだ、真面目ではなかったんだ。
でもそういう風潮が当時の世の中には充満していて、それが当たり前だ、というような「季節」だった。